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お母ちゃん、今までありがとう [私の日記]

この前の記事で、私を待っててねって書いたのに、母は待っていてくれなかった。

3月18日午後12時8分、母が永眠しました。

妹からの知らせを受けたのが亡くなった4分後。仕事の段取りをつけて一度自宅に戻り、1時間後の新幹線に乗って、母の待つ実家に着いたのが18時過ぎでした。

母はすでに湯灌をしてもらい、晴れ着を着て静かに眠っていました。顔の周りと腹部の上に多量のドライアイスを乗せられていたので、顔しか見えない状態でした。
その顔つきはとても穏やかで、優しい顔でした。

母が自宅にいる間は、母の顔には白布を被せず、いつでも顔を見ることができるようにしました。
何度も母の側に行って横たわる母の顔を見ても、まだ眠っているだけのように思えて、亡くなった実感が湧かないのでした。だから、涙もそんなに出なかったのです。

私の持っているファンデーションと口紅でお化粧をしてあげました。母はお化粧なんてここ何年もしていなかったなぁと思いながら、きれいにしてあげました。
久しぶりにお化粧をした母は、まだ生きている様でした。
でも、顔を触ると驚くほど冷たくて。そして、ピクリとも動かないのでした。


亡くなる前日、母は父に『もう、お父さんがここに来るのは、これで最後かもしれんで』と言ったそうです。
それでも、その日も母はよくしゃべって、ご飯も食べられたし、ベッドから起き上がることも出来ていたので、父は、まさかそれが本当になるとは思っていなかったようです。

医者や看護士さんの話によると、亡くなった当日も朝ごはんを食べていたし、ベッドに座ってパジャマを畳んだりと、ここ最近の母の様子とまったく変わらなく過ごしていたそうです。
でもその後突然呼吸不全となり、集中治療室へ運ばれたとのことでした。
その知らせを自宅にいた父が病院からもらったのは、12時5分前。病院まで車で5分もかからないのに、父が病室に駆けつけるのと同時に心肺停止になったそうです。

呼吸不全で急変してから意識がなくなるまでの時間が短かったようなので、たぶんは母は、大きな苦痛を感じたり恐ろしい思いをすることは、ほとんどなかったのだろうと思います。
それは『ガンの恐ろしい痛みが怖いから、眠っている間に死にたい』と言う母が望んだ亡くなり方でした。


亡くなった当日の夜は、私も父も妹もいつもどおりに夕食を食べ、お風呂にも入りました。まだ3人とも母が亡くなったということが信じられなくて、日常どおりに過ごすしかなかったような気がします。

それに、葬儀のために考えたりやらなければならないことが山のようにあったので、母のことをじっくりと偲ぶ間がなかったのでした。
親戚への連絡や出席者の人数確認、葬儀の段取りを確認したり、お通夜、葬儀、初七日の食事やお供えを決めたり、お布施を用意したり。
遺影の他に祭壇で想い出の写真をスライドショーするとのことで、若い頃からの母の写真を選んだのだけど、父があれこれ懐かしがってそれぞれのエピソードを話すので、すごく時間がかかったり。
ひと段落して布団に入っても、あれこれ母のことを考えると眠れず、けっきょく3時間ほどしか眠れませんでした。


次の日の朝、8時半頃には葬儀社の人が来て色々な打ち合わせをし、9時にはお寺さんが来て、枕経をあげて頂きました。
枕経を唱えて初めて、亡くなった人となるそうです。それまではまだ生きている人なので、お線香やお供えのご飯もあげないそうです。
身近な人が亡くなったのは25年前に祖母が亡くなった以来で、その時はまだ学生で葬儀のことも詳しく覚えていないので、ほとんど全てのことが初めて知る事なのでした。

そして16時に納棺。甥っ子たちも一緒にみんなで死装束に整えてあげました。
白足袋と草鞋を履かせてあげて、脚絆、脛当て、手甲をつけ、頭陀袋に三途の川を渡るための六文銭(の絵を書いた紙)を入れて、経帷子を晴れ着の上に乗せました。そして最後に頭に三角の天冠をつけてあげました。
もうこの時には、死後硬直が始まっているのがわかりました。母の体を動かしても、直線的な動きしかしないのでした。
母の指を触ると、これもドライアイスのせいもあると思うけど、異常に冷たく、つい1ヶ月ほど前に握手した時の、温かくてふわふわした母の手の感触はどこにもないのでした。
このとき初めて、母は亡くなったんだという実感が湧いたのでした。

この後、みんなで棺の中へ母を入れました。
そして、母が愛用していた物や好きだった物を一緒にお棺の中へ入れてあげました。
抗がん剤の副作用で髪の毛が抜けたために妹が編んであげた帽子や私が買ってあげた帽子、
妹が編んであげたお気に入りの毛糸のショール、
耳が聞こえにくかったので必需品だった大学ノートとえんぴつ、
母が好きだった新聞のクロスワードパズル(母が入院する直前にも、『ここの答え、解かる?』と私に尋ねてきて、2人で完成させたなぁ……)
孫たちが写った写真、
母が好きだったおはぎやドラ焼……

葬儀の後の出棺までの間にも、入れてあげたい物を思い出しては色々と入れてあげました。
葬儀社で用意してくれた色紙にみんなで寄せ書きしたもの、
母が好きだったパック入りのコーヒー……。
でも、葬儀が終わった後で日常に戻ってからの方が、『これも入れてあげたらよかったねぇ』と、次々と母が好きだった物を思い出すのでした。


納棺の後、お通夜を行なう葬儀会館へ棺を運びました。
母が家を出る時、葬儀社の車のクラクションが鳴り響いたあと、母の使っていたお茶碗を割り、藁に火をつけて送り出しました。


18時からのお通夜が始まる前は、慌しく過ぎました。
実はこの日の夕方に、私の会社の人事異動の辞令が出るという予想があったので、広島支店に関する辞令が出たら知らせてもらうよう支店の女性に頼んでありました。
自宅から斎場に移動する車の中でメールを確認すると、彼女からのメールが。

なんと、私自身に辞令が出たのでした。異動先は……大阪支店課長!
そして私と同時に支店長も交代。
順番的には私の方が先に動く可能性があったので、少しは覚悟していたんだけど……。
支店長が変わった上に、課長の後任が来ない、つまり人数減なのです。残された営業担当者は先月異動してきたばかりなのに。
葬儀会館に着いてから、会社へ電話を入れると、メールをくれた彼女は『これからどうしたらいいのか……不安です』と言ってました。
この日は支店長も長期休暇中、もう一人の営業担当者も帰省のために休暇中で、支店には4人しか出社していない状況の中での辞令でした。

私自身も、仕事の引継ぎのこと、新居探し、引越し、今後のスケジュール……色々考えなければならないはずなのに、その間にもどんどん親戚たちや弔問客がやって来るので、その応対をしなければならなかったり、お通夜や葬儀の打ち合わせをしたり……と、ゆっくりあれこれ考える暇もないのでした。


お通夜の席では、周りにたくさん人がいるということや、母が目の前にいるということもあって、まだ実感がなく、そして転勤のこともあったので、悲しいというよりも少しボーっとした状態で涙もほとんど出ませんでした。
というよりも、いろんなことが短時間のあいだに起こったので、思考回路とか感覚が鈍っていたのかもしれません。
最後の喪主の挨拶では、父がすごく緊張していて、『同じこと何度も言ってるなぁ……言い回しが変だなぁ……』なんてことを考えていました。


お通夜の後は親戚と身内とで会食をして、父と私、父方の伯母4人が会館に泊まりこむことになりました。
父は前日ほとんど寝ていないので、21時過ぎにはもう眠ってしまったけど、残った女5人で夜遅くまでいろんな話をしました。もう冠婚葬祭の時しか会わない伯母達だけど、それでもみんな仲が良く、賑やかな人たちばかりなので、しんみりというよりも笑って過ごしました。
生前、母は妹に『私のお葬式の時は、笑って送ってね』と言っていたそうです。その通りになりました。

お通夜は夜通しお線香とろうそくの灯を消さないようにしなければならないそうです。いわゆる『寝ずの番』と言うそうですが。
お線香も通常よりも長いものですが、それでも30分しか持ちません。
そのため、伯母たちや私も交代して起きていました。
私は前日もあまり寝ていないので、先に休みました。でもけっきょく3時間くらいすると目が覚めたので、起きていた伯母と交代して、その後ずっと一人で起きていました。
おかげで、いろんなことをゆっくりと静かに考える時間が出来て、母ともゆっくりと話すことが出来ました。

明け方近くに父が起きてきたので、今度は父と2人でじっくりと色んな話をしました。
母の最期のこと、葬儀やお金の段取りのこと、これからの父と妹との生活のこと……。ここ最近、というよりも今まで、こんなに父と二人きりで話し込むなんてことはなかったなぁ。。。
母が亡くなったことで、今まで知らなかったことを体験する機会がここにもありました。


朝になると、また集まってくれた親戚や弔問客への応対、食事の数のチェック、急遽必要になったお膳料(お寺さんの食事代)の準備など、葬儀までの時間が、さっきまでの静かな時間がウソのような目の回る忙しさで過ぎてきました。

葬儀が12時50分から始まるので、通常なら葬儀の後に食べる仕上げを、葬儀の前に食べました。
予定していた人数よりも多く親戚たちが集まってくれたので、お膳の数が足りず、その手配のためにバタバタして、かなりイライラ。
おまけに普段から何かと口うるさい伯母があれこれと口を挟んでくるので、さらにイライラは増すばかり。

それに、妹は自身の喪服の着付けや甥っ子の世話、夫の両親や自分の友人への応対などで時間を取られ、私が用を頼みたい時にいないので、妹を呼んで『やらないといけないことがいっぱいあるのに、私一人では手が足りないんだよ!自分たちのことばかりじゃなく、全体のことにももっと気を配って、手伝って!』と怒ってしまいました。
『お母ちゃんのお葬式なのに、こんなに気が立ってたらあかんなぁ~』と思いながらも、沸騰してしまいました。

葬儀は、曹洞宗菩提寺の導師の他、脇僧2人に読経していただきました。
お経の内容は良くわからないけど、立派に母を送っていただいたと思います。

お焼香で、地元の友人が来てくれていたのに気がつきました。
そう言えば、私の実家がある地域では、誰かが亡くなると、葬儀社が葬儀告知の新聞折込を入れて、立て看板を町の主要な交差点に出してくれるのです。
小さな町なので、これでほとんど町中の人が亡くなったこと知るのです。
おかげで、地元に2、3しかない金融機関もどこの誰が亡くなったかをすぐに知ることになり、亡くなった翌日に母の口座からお金を出そうとしたら、しっかり止められてしまっていましたが。
……このために、母には遺産らしい遺産といったものがないので無縁だと思っていた遺産相続の手続きをする必要が出てきました。私が仕送りをしていたのは母の口座だったので、亡くなる2日前に仕送りしたお金もすぐに引き出すことができません。
まあ、ここで普段の私の仕事で得た知識が役には立つのだけど……。母が生まれてから亡くなるまでの戸籍を追跡して、母の法定相続人を確認する作業を私自身がするなんて、思っても見ませんでした。

こういうハプニングはあったけど、それでも、こちらから何も知らせていなくても友人たちが葬儀に来てくれるということもあり、小さな町ならではの慣習がありがたいと思ったのでした。


お焼香の後、母と最後のお別れをしました。
棺を花でいっぱいにしてあげた時、妹が号泣しました。その妹の様子を見ると、“私は、しっかりせなあかん”と思ってしまったのでした。

その後、棺の釘打をしました。親族が2回ずつ石で釘を打った後、通常は葬儀社の人がしっかりと打ち込むようですが、父が本職の大工さんなので、その役目は父がすることになりました。

そのあと、喪主の挨拶。前日に続いて2度目なのと、お通夜とは違って父自身も憔悴していたようで、緊張はありませんでした。

そして、出棺。
出棺の後はそのまますぐにマイクロバスに乗り込み、火葬場へ行きました。


母の亡くなった時のこと忘れてしまわないように、このブログでちゃんと書いておこうと思って。

でも、新居探しや、大阪支店での引き継ぎ、広島支店での最後のお仕事、、引越しの準備……
やらなければならないことがあり過ぎて、ゆっくりパソコンに向かうことも出来ません。
合間を見つけて書いてきたけど、とりあえず、一旦アップ。

続きは、また、引越しの合間に。
ほんとは色々ないことがあり過ぎて、あたま、いっぱいいっぱいなんだけど。














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